都倉俊一さんは早くから作曲家としての芽が出て、その道を究めた方です。
転身して作曲家となったという経歴に注目される方もいらっしゃるのではないでしょうか。
若い頃にどのような経験を積んだのでしょうか。
作曲家としての歩みにも触れつつ、経歴を振り返ってみます。
都倉俊一の若い頃は?
都倉俊一さんの若い頃は、外交官の父と専業主婦の母、二人の弟に囲まれ、海外と日本を行き来した時期でした。
父の赴任に伴いドイツで暮らし、何年か後に帰国する生活を繰り返しました。
都倉俊一さんの若い頃を知るうえで、異なる文化に早くから触れたドイツでの経験は欠かせません。
7歳でボンのアメリカンスクールに入り、ドイツでもバイオリンを継続。
敗戦国だったドイツは日本同様、当時は貧しい状態だったそうです。
しかし、アメリカンスクールは様相が異なり、アメリカ然としていました。
幼い僕は初めてハンバーガーを食べ、コカ・コーラを飲み、映画館でハリウッド映画を見ては目を丸くしました。
特に音楽。僕はドイツでもバイオリンを続けていたのですが、エルビス・プレスリーやビートルズの歌に触れて、なんだコレは! と、大きなカルチャーショックを受けたのです。
週刊現代 作曲家・都倉俊一が明かす…「人間として全くタイプが違う」のに、阿久悠と永遠の名コンビになれた理由 2022.9.8より
高度成長経済後の昭和50年代に入って生まれ育った筆者の場合、日本が豊かな状態になっていました。
ですので、正直実感がわきませんが、都倉俊一さんが触れたアメリカ文化は敗戦国のそれとは大いなるギャップがあったものと想像されます。
都倉さんは12歳で帰国し、学習院中等科に属しますが、卒業後には再びベルリンへ渡りました。
ベルリンではクラシックと共にロックにも興味を示し、友人とバンドを楽しむことも。
ベルリンのバイオリンの先生からは、ベルリンの音楽大学への進学を勧められました。
都倉さんは日本に戻る道を選択し、学習院大学法学部へ進学しました。
ただ、法学の道を極めるようなつもりではなかったようです。
当時の日本は高度経済成長期で、都倉さんは仲間と♪「ピーター・ポール&マリーの花はどこへ行った」などを歌うといったフォークソンググループで学生生活を満喫しました。
そして、都倉さんは学生時代に作曲を手掛けるようになります。
ドイツでの暮らしが自立心を育て、才能を自ら発信する力の源になったように思えます。
引き続き、作曲家になってからの歩みに触れていきます。
都倉俊一の作曲家としての歩みと転機とは?
都倉俊一さんの作曲家としての経歴は、大学在学中の創作を入口に、音楽業界で仕事を広げた歩みです。
著名な作曲家の中には、歌手を目指しつつも断念し、転身を図ったという経歴の方も複数見受けられますが、都倉さんの場合は全く異なります。
都倉俊一さんは大学のフォークグループで仲間と歌いながら、作曲にも取り組みました。
演奏するかたわら、自分の曲を形にする側へ進んだ時期でした。
大学2年のとき、都倉さんはヤマハのポピュラーソングコンテストに挑戦します。
この経験を通じて音楽業界の人と知り合ったことが、作曲家としての人生を大きく動かしました。
当初の仕事は洋書の翻訳等でしたが、作曲の機会が舞い込みます。
転機を具体的に示す作品が『あなたの心に』です。
この曲の作曲を手掛けたわけですが、ヒットを機にオファーが増え、都倉俊一さんは楽曲制作の依頼を多く受けるようになりました。
さらに、運命的ともいえる、作詞家の阿久悠との出会いがあり、その後、2人は30年近く楽曲を手掛けます。
僕は生意気だったというか、外国育ちなので思ったことを言ってしまう「出る杭」で、周囲の大人達からずいぶんと打たれました。でも阿久さんは出る杭を打たずに、もっと出ろ! と応援してくださって。それが嬉しかった。
週刊現代 作曲家・都倉俊一が明かす…「人間として全くタイプが違う」のに、阿久悠と永遠の名コンビになれた理由 2022.9.8より
出る杭をどんどん伸ばしていった。
この長い共同制作が経歴の柱ともいえるでしょう。
私個人的には、学生時代に手掛けた作曲を一時の挑戦で終えず、第一線の仕事として続けた点に強くひかれます。
歌を聴くときは、歌手名だけでなく作詞と作曲の表示を確かめると、阿久悠さんとともに歩んだ都倉俊一さんの作品をより味わえるでしょう。
曲作りを軸にした長い音楽活動こそ、経歴を知るうえで見逃せない部分ではないでしょうか。

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